“父の遺体があがった。” から始まったこの物語。父富岡康宏は定年後、老父の介護をして見送ったあと、東北の大震災に巻き込まれ亡くなったと聞かされたかつての恋人笹岡紘子を探しに出掛けた仙台で、多くの死や津波によって破壊された土地、家屋敷を失い避難場所で不自由な生活を強いられている人々を目の当たりにしてボランティア活動に参加し精力的に働いた。その後、特別の決意があったわけではないがある日妻に「四国遍路に行ってくる」と言って車で向かった。その父が無事八十八か所の巡礼の旅を終えた後、帰りのフェリーから行方不明となり、数日後波間に浮いているのが確認されたのだ。
父の足跡をたどって次女碧は四国に向かった。遺品の手帳を頼りに札所を巡っていくと方々で刃物の研ぎ屋をしていたことや女性と一緒だったという話を聞いた。二万円を超える診療費を払っていたことも手帳には記載されていた。支払先の医院を訪ねあてるとその二万円は遍路の途中出会った遍路姿の行き倒れの女性を連れて来て保険証も現金も持っていなかった彼女の代わりに支払ったことがわかった。そこで医師から「あなたのお父さんは姿形こそ白装束に金剛杖ではなかったけれどその風情は遍路そのものだった。恬淡とした遊行期の男の姿だった」といわれた。遊行期とはバラモン教の言葉で人生を4つの時期にわけて学び、結婚し、子供をもうけやがて孫ができる季節になると子供は妻に託しこれまで築いてきたものを捨て、森に入れという教えだと聞き、父は自分たちをあっさり捨てたのかと苦い疑問だけが残った。その後も手帳に記載された場所を訪ね最後にであった地元の大学の歴史研究会のメンバーから「遍路の白装束は死に装束、金剛杖は墓標を意味する」と教えられ、ひょっとすると父は巡礼の途中に死に場所を得ることを望んでいたたがそれがかなわず、冬の海に飛び込んだのかとの思いを抱いた。
実は父は大学時代に付き合った才能豊かで美貌の持ち主で皆の垂涎の的だった笹岡紘子という女性と、彼女が震災で亡くなる少し前まで細く長くその関係は続いていたのだ。一度家族にその付き合いが知られてしまい、二人は別れることになったのだが、仕事関係の集まりで再会しメールのやり取りからまた付き合いが復活した。ところがそのメールから二人の関係が再び家族の知るところとなり、父は母を始め結婚して2児の母となっている長女、キャリアウーマンとして独身生活を謳歌している次女からはすっかり信用をなくし謝罪を余儀なくさせられていたのだった。
父は本当に自ら海に身を投げたのか、それとも???
二度も家族を裏切り信頼を失った富岡だったが、難関大学を卒業し、大企業に就職し、家庭をしっかり切り盛りする妻と二人の子供や孫に恵まれ、その一方で大学の准教授をしていた美貌の恋人との逢瀬、人生でやり残したことはなく充実した一生だったように思う。
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