家康の子          植松三十里

 徳川家康の次男として生まれた秀康が15も歳のはなれた長男信康の計らいで父家康に初めて会ったのは、於義丸と呼ばれていた3歳の時だった。やがて織田信長亡き後着々と権力を伸ばしつつあった秀吉の養子(実質的には人質)として大阪の城で暮らすことになり、時に遠く離れて暮らす母お万を思い、父家康の自分への冷酷さを思う秀康であった。

 秀吉に実子が生まれ、北条家の小田原城を攻め落とすことになった時についに養子から解放された。しかし今度は北関東にある結城家へ再び養子として向かい入れられることになったのだ。周囲の城がこぞって北条方だったため反北条に傾けさせるのは容易なことではないと判断した結城家では家康の次男を受け入れれば十万石の加増と徳川方の援軍が期待できるとし、議論の末秀康を受け入れることとなった。その後秀吉の北条攻めは秀康が結城家に入ったことにより圧倒的な勝利を収め、結城秀康として一大名として独立した。秀吉の朝鮮出兵、秀頼の出生、この世に未練を残しながらの死去の後、関が原での戦いでの論功行賞により越前の大名として北ノ庄に入城し、領内をくまなく廻り、北ノ庄城を5年の歳月をかけて完成させたのちわずか37歳でその短い人生を閉じたのであった。

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